理数系の道を外れて歴史と教員の道へ

高校に入ったころは数学が得意としていたのに高二の最初の中間試験で腹を下して途中退場。途中どころか始まってまもなく抜け出したので二問か三問しか解いていない。それまで5段階評価の5しかとったことのなかった数学にはじめてケチがついた。人間として弱かった。国語系に自信がなかったのですべてが終わった気になってしまった。そんなときに社会科教室で勉強していると机下の棚にボロボロになった岩波文庫の『福翁自伝』を見つけてしまった。それまで歴史などいっさい興味も関心もなかったのに、なぜか読んでみると文語体の表現も相まって読解意欲をかき立てた。中身も福沢の人を食ったような内容に教科書では味わえない歴史の妙味を感じた。何でだろう。そのときに歴史を学問として選んでしまったのがすべての間違いだった。

歴史などを専門として学べば将来は教員になるしかない。教員になると社会科教員だ。ところが、それまでは多少でも理数の人間で社会科など何の興味もなく得意でもない。そんな分野に入り込んでしまった。これが間違いの一つ。そして、一番の間違いは大嫌いな教員の道に引きずり込まれていく運命を自らつくってしまったことだ。こんなはずではなかったと言うが、すべては自分一人の責任である。

歴史の道に入ったのはいいが、この学問に少しも興味が持てない。大学に入ってすぐに感じたのは歴史学は科学ではない。すでに失われた過去を追い求めても実証のための追体験がしにくい。事実を求めるための材料として考古学的資料(物的資料)と過去に残された文字資料(古記録・古文書・日記)がある。しかし、これらが真実を求めるには不適切なものばかり。たとえば貴族の日記などが第一級史料として扱われるが、この日記は私的な真実を述べたものばかりかというと、後世の人たちに見せるために書かれたものが多い。書かれた内容も実体験よりは耳にした噂を書き残したものばかり。当然人に見せるために書かれたものは作為が働く。噂を書き残しても、今のマスコミにも通じることだが、真実を調べ尽くすよりも面白おかしく伝えようとする傾向がある。それが高じて軍記物や史実をもとにした物語に発展していく。手紙なども重要資料とされるが、手紙も人に伝えようとするときにすべてを真実で書いているわけではない。その嘘や単なる受け売り知識を見破るにも検証は難しい。

それ以上に歴史を迷わせるのは、作り物の軍記物やその他の物語、あるいは歌舞伎や大河ドラマ、司馬遼太郎の歴史小説などで有名になった想像上の出来事を信じる人が多く、その影響はなかなか拭い去ることができない。義経や忠臣蔵のイメージなどはその代表的なものだろう。

また、歴史家側にも問題がある。書いた本も大衆向けに売れなければ意味がないとして、「○○の謎」などというタイトルが流行。しかし謎は謎のままで結局は検証ができないものばかりだから謎なのである。それでも何とかと言って開明している内容は根拠もなく推論の域を脱していない。確実な資料がないから(確実な資料などあるのだろうか?)謎のままなのであって、誰がどんな手を使っても史実は開明できない。合戦ものなどもルポルタージュというよりも自分の手柄をことさら際立たせようという武将たちの自慢話で膨らまされた面が強い。あるいは歴史ファンが勝手に実物大以上の偉人像をつくりあげているケースも多い。

さらにひどい例を一つあげておこう。わたしを田舎の高校学校の教員として推薦してくれた大学教授がいた。わたしが在籍していた大学の名誉教授で茶道史研究の第一人者であった教授は、戦後間もないころにこの高校で教鞭をとっていたことがあった縁で新たな社会科教員の推薦を依頼されていたのだ。実は不思議なことに教授はこの高校の経営者であり校長でもある人物の不興を買って『教育界から抹殺してやる』とまで言われて追い出されてしまった過去を持つ。しかし、その後に東大史料編纂所勤めを契機として歴史学の分野で名をはせる存在となる。そうなると、高校側はこの名声を利用して縁を持とうと企んだのだろう。さて、この教授の喜寿を祝う会に招かれた時に教授の略歴などを記した冊子が配られた。弟子たちが作成したものらしいが、何とこの教授の経歴からこの高校の名は省かれていたどころか、まったく別の町の県下一の女子校を思わせるような表現で高校勤務の職歴が紹介されていた。弟子たちもそれ相応の活躍をしている歴史家たちである。その彼らがこういう嘘を書いている。歴史家が真実だけを書くというのは信じない方がよい。また別の話であるが、同じ大学の有名教授がとある大名家からこの家の歴史を執筆依頼された。この大名家は戦国時代に通説では山賊まがいの野武士的話が伝わっていて、家の名誉に関わるので真実を調べてほしいということだった。しかし、この教授は大名家の名誉のために史実を裏切って功績をたたえる内容でまとめて上梓してしまった。歴史家がここでもまた嘘を書いて史実をねじ曲げていた。

こんな調子だから、わたしは大学1年で歴史学なんて諦めて仏教の本やら『エコノミスト』や『東洋経済』という経済雑誌や『ジュリスト』法令集の雑誌を読んでいた。そして歴史なんてあまり勉強しないで教員の道に入っていくことになる。

教員になって

教員は昨日までただの人だったものが教員になったとたんに偉い存在として扱われる。教室に行けば一国一城の主だ。その思い上がりもあるのだろうが、同僚たちは異口同音に「抑えつけないと生徒に舐められる」という思想だった。

この程度の人間が教員をめざすのかという例がある。教員になって二年目の数学の教員がその年からクラス担任になるというので受け持つクラスの名簿を眺めると、前の年に授業で知っている嫌いな生徒が何人もふくまれていたらしく「何だよこのクラス。こいつもいる、あいつもいる」と嘆いている。それを横で聞いたわたしが「先生が生徒を選ぶのと同じように、生徒も先生を選んでいるんだよ」と言って聞かせたらその若い教員に嫌われてしまったようだ。考え方がまだできあがっていない。過去にそれほど苦労もしていなければ自省の精神も身につけていない。

周りを見渡しても似たような精神の同僚が多く、冬期休暇や夏期休暇などの休みの多い恵まれた職業で、学問の未熟な生徒を相手に適当なことを教えていれば事足りる仕事としかとらえていない。こういう職業に何年も携わっていると、人間として堕落していくのは当然だろう。

そうは言っても、いまでは教員の仕事はたいへんだ。授業も適当に教えていると教育ママたちに押しかけられる。教員お得意の依怙贔屓や体罰でもしようものならつるし上げを食らう。授業以外の仕事も多く、それらは残業扱いはされない。ノルマは高いのに基本給は低い。教員を見る世間の目がわたしと同じになってきたのだろう。わたしはもう55年も前の中学のころから教員なる者には人間として信用をおいていなかった。それなのに、運命はわたしを教員にしてしまった。